心の哲学 -- ひとは、進化の結果手に入れた「心」を、何故に粗末に扱うのか?(あなたに心の補助線を)

進化の結果、認知機能という大きな能力を手に入れて、その能力をどのように扱ったら良いかが分からず、
その前で立ちすくんでいる人々の有様が見える。
・ある人は、「心は、幻である」と説き、
・ある人は、「わたしが説く教義に心を預ければ、天国に行ける」と説くなど。

これに対し、筆者は、
・人々が思っている常識(素朴心理学)からすれば、「心は、人それぞれにある」ことは、自然なことである.
・普通の人は、「日頃話している相手の心が、幻とは少しも思わない」ので、日常生活が成り立っている.
などを考えれば、
それぞれの人が「心(意志)」を持っていると考えざるを得ない。
グローバル化が進み、世界中に「戦争」と「宗教的ドグマがもたらすテロ」が蔓延している現代社会にあって、
これからの進むべき道を真剣に考えている若者に対し、「君の心は幻で、自由意志などない」と説くなど、
到底できない(日常生活から切り離して考えることができないのが、心の哲学なのだ!)。
「心の哲学」は、人生論ではないが、それが絶望感と無責任な態度を誘発するものではなく、
人生は生きるに値することを訴えるものであってほしい。

中学生時代に、「幾何学の問題が補助線一つで解けたときの爽快さ」を、今でも思い出す。
筆者は、幸いにも、心の哲学(トシーマの仮説)という心の哲学解明の「補助線」を手に入れた(と思っている)。
この哲学仮説をよりどころに、「心の哲学上のいろいろな課題の解明」に取り組んでみたいと思う。
以下に示す拙文は、筆者独自の哲学観(トシーマの仮説)をもとに解説しているもので、学術的承認を得ているものではありません。
従って、筆者は、これを引用された結果に、何等の責任を負うものではないことを、ご承知おきください。

 (見出し一覧)
 2017.9.20 「意志」について考える(意志とは、生命力の発露である)
 2017.9.4 「意識のハードプロブレム」について考える(イージープロブレム ?? )
 2017.8.8 「心的外傷後ストレス障害(PTSD)」について考える(追体験による減感療法)
 2017.7.15 「素朴心理学(常識)」の立場から「心」について考える(平常時において、ひとは「心」の存在を疑わない)
 2017.7.8 「志向性」について考える( 意識 = 心的イメージ + 志向性 )
 2017.7.3 「人格(パーソナリティ)」について考える(人格は、道徳法則の主体である<イマヌエル・カント>)
 2017.6.22 「心的因果」について考える(「トシーマの仮説」は、心身1.5元論 ?? )
 2017.6.14 「クオリア」について考える(「クオリア」について問うことは、無意味である)
 2017.6.5 「ベンジャミン・リベットの自由意志研究」について(「自由意志がない」ということは、暴論である)
 2017.6.1 「実在論」について考える(「トシーマの仮説」は、自然主義を前提にしている)
 2017.5.20 「他我問題」を考える(「トシーマの仮説」には、他我問題は存在しない)

 (注)記載内容は、予告なしに追加または変更することがあります。

2017.9.20 「意志」について考える(意志とは、生命力の発露である)

「意志」とは、一般的に「何かをしたいという強い気持ちを持ち続けること」を意味し、「情動に突き動かされた強い思い(生命力の発露)」 を感じさせる。
認知機能によって指し示された意図(理性的に妥当と思われる選択肢)を、情動が「次なる打つ手」として選択したとき、その「次なる打つ手」は、 社会的存在である自己(自己意識(自分self):わたし)が選択したかのごとく意識化(合理化)される。
すなわち、「意志決定したのは、社会的存在である「わたし」である」とし、社会的存在「わたし」を自覚する。
この社会的存在「わたし」は、素朴心理学(常識)から見た「心を持った社会的構成員」であり、社会的存在者(道徳法則の主体)とみなされる。
「心を持った社会的構成員」については、「トシーマの仮説: 9.生命(ひと)は、認知機能(理性)の衣をまとい、社会的存在になる(自己保存と自己疎外)」を参照願えれば、より理解が深まるであろう。
「まとっている理性の衣」は薄いため、往々にして、情動(感情と欲望)によって破られる。 それでも、「ひと」は、その破れを繕いながら、 他者とともに生きて行こうと懸命に努力する(逆に、分厚く丈夫で破れそうにない衣をまとっている人もいるが、それはそれで、困ったものだ)。
このように「人生は一筋縄では語れない」という人もいる(だから、人生は面白い)。

2017.9.4 「意識のハードプロブレム」について考える(イージープロブレム ?? )

意識のハードプロブレム(Hard problem of consciousness)とは、物質および電気的・化学的反応の集合体である脳から、 どのようにして主観的な意識体験(現象意識、クオリア)というものが生まれるのかという問題(Wikipediaより:チャーマーズ)であり、解明不能な超難問であるとされている。
トシーマの仮説では、この「主観的な意識体験」は、認知機能が記憶情報を心的イメージとして再現することによって得られる 「再現している心的イメージとそれに志向している自己の感覚である」と捉えることができる(「トシーマの仮説: 2.「心」とは、どのようなものであるか(「トシーマの仮説」の基本概念 と 基本テーゼ」を参照)。
このことは、「映写機(認知機能)で映写フィルム(記憶)を読み取りながら、スクリーン(視覚野)に映像(心的イメージ)を映し出し、 それを見ている自己」の例えで説明できる(もちろん、「見ている自己」は、「反射意識がもたらす自己意識(自分self)」である)。
「視覚情報は、外界の映像が網膜で視覚信号に変換され、視神経で大脳に伝えられた後、映像として再合成されたものである」 という脳科学上の知見を参考にすれば、上述の例えで表される仕組みが、脳の機能に組み込まれていると推察できる(将来、明らかになるであろう)。
このように考えれば、この問題は「ハードプロブレム」と言われるものではなく、「イージープロブレム」と言える。

2017.8.8 「心的外傷後ストレス障害(PTSD)」について考える(追体験による減感療法)

「心的外傷後ストレス障害(PTSD)」とは、「強烈なショック体験、強い精神的ストレスが、こころのダメージとなって、時間がたってからも、 その経験に対して強い恐怖を感じる障害(定義:厚生労働省)」であるが、この障害を「トシーマの仮説」のもとで解釈すれば、以下の通りとなろう。
人類は、その他の霊長類がもつ本能的に危険を察知する能力の他に、過去の経験(エピソード記憶)から、眼前の事態が生存に有利か不利かを 判断する能力を獲得している。この能力は、「心的イメージとそれに対する評価値からなる連想記憶」によって実現されていると思料される。
この連想記憶については、「トシーマの仮説: 7.人間(個体)は、生体制御情報を、どのように活用するか(デカルト以来の心身問題に対する一つの解答)」を参照願えれば、お分かりいただけると思う。
「強烈なショック体験、強い精神的ストレス」を与えた過去の心的イメージが、この連想記憶に生存に危機的状況をもたらすであろう評価値とともに、 深く刻み込まれることによって、その後にもたらされる類似する経験(心的イメージ)に強い恐怖を感じさせ、身体的障害をもたらす。
そして、過去の恐怖体験(エピソード記憶)が無自覚(忘れる)になっても、連想記憶に恐怖のイメージが残る場合(潜在意識化、トラウマ)がある。
精神医学でのPTSD治療の一つとして、連想記憶に残った恐怖のイメージを和らげる方策(連想記憶の書き換え、追体験による減感療法)が有効となる。

2017.7.15 「素朴心理学(常識)」の立場から「心」について考える(平常時において、ひとは「心」の存在を疑わない)

「生命(ひと)は、他者の世界に生み出され、自己のあるべき姿を求めて成長する」ことは、「トシーマの仮説: 8.生命(ひと)は、「他者の世界」に生まれ、「ひと」になる(自我の成長、そして「自由」)」で既に述べているが、 それは、自己が群れ社会に順応する過程でもある。
生命(ひと)は、その成長過程で「他者のあり様」を「自己の意味記憶」に組み込み、他者もまた「心を持った群れ社会の一員」であると理解する。
それと同時に、生命(ひと)は、他者との意思疎通を通じて、「自分は、何者であるか」の評価を「自己の記憶」に取り込み、「ひと」になる。
すなわち、「ひと」と他者(または、他者達)は、「わたし」と「あなた(または、あなた達)」の「社会的関係(社会的存在)」になる。
この「社会的関係」になるとは、同じ群れ社会のルール(慣習、文化)に従って「互いに意思疎通する(心を通わせる)存在」になることであり、
かつ「同じ道徳法則に従う存在」になることを言う。
以上のことは、ひとが生まれて、成長する過程を見れば、容易に(常識的に)理解できると思う。
ひとは、鏡に映る自己の姿を見て、「自己も他者と同じ存在(自己も他者と同様に心を持っている)」であると「確信する」。
しかし、この「自己存在の確信」は、平常時(意識が他者に向かっている時)において、もたらされるのであり、
非平常時(自己に意識が向いている時:内省的な時)には、その確信的態度が崩れる(漠然とした不安状態になる)場合がある。
この「漠然とした不安状態」については、「トシーマの仮説: 2.「心」とは、どのようなものであるか(「トシーマの仮説」の基本概念 と 基本テーゼ)」を参照願えれば、理解していただけるであろう。
講演者が「心は幻である」と熱心に説いているとき、それを聴いている受講者は、「自分の心の存在を微塵も疑っていない」のである。

2017.7.8 「志向性」について考える( 意識 = 心的イメージ + 志向性 )

「志向性」については、ブレンターノが提起(再提起?)して以降、いろいろな哲学者により、「意識」に付随するもの、
または、「意識そのもの」であるなどと議論され、現代でもなお「心の哲学」の中心的課題である。
「トシーマの仮説」をもとに、「志向性」を読み解けば、次のように解釈できる。
「意識とは、認知機能が、自己の記憶をたどること」と、「トシーマの仮説: 2.「心」とは、どのようなものであるか(「トシーマの仮説」の基本概念 と 基本テーゼ)」で定義しているが、
そこには、常に「どの記憶を対象にしているか」という「対象性」を伴っている。
この「対象性」には、「観察者と観察対象」が不可分に伴う。
この観察者から観察対象を指し示す「方向性」が、「志向性」である。
すなわち、「志向性」は、「方向性」が持つ始点(海馬)とその終点(対象記憶情報)で表される。よって、
「意識」とは、「志向性」で指し示された終点(記憶情報)を、イメージ(心的イメージという)として再現することを言う。
「志向性」の終点にある記憶情報が再イメージ化されたとき、「志向性」の始点に反射的に返される体感を「反射意識」と言う。

2017.7.3 「人格(パーソナリティ)」について考える(人格は、道徳法則の主体である<イマヌエル・カント>)

生命(ひと)は、他者の世界に生み出され、「自己のあるべき姿」を求めて成長する。
この「自己のあるべき姿」とは、自己保存の主体である生命(個体)がその命を生かし切ることと、
その生命(個体)を守る共同体(群れ社会)により良く適応することで表される。
すなわち、生命(個体)は、「個体としての生存本能主張と群れ社会帰属のための自己抑制」という二つの相矛盾する欲求を
認知機能で調整し、満足を得ようと努力する。ここに、群れ社会における生命(個体)の振舞いをルール化する動きが生じる。
それは、封建的秩序であったり、ある種の思想的ルールに基づく社会形態(例:社会主義社会)であったりする。
ある群れ社会全体がルール化(制度化)されたとき、この群れ社会に帰属する生命(ひと)は、社会的存在(構成員)となり、
そのルールに従うよう要請される。このとき、社会的存在(構成員)は、互いに他者から「このような人」と色づけられる。
この他者から「色づけられた自己」を、そのひとの「人格(パーソナリティ)」と言う。
そして、自己の人格は、自己承認の有無によらず、帰属する社会の「道徳法則の主体」と見なされる。
自己の人格(魂)は、自己の死後も他者の心(記憶)に残る。そして、その他者の死とともに、自己の「魂」も消滅する。
すなわち、「魂(たましい)」とは、ひとの死後に、その肉体を離れた「人格の概念上の存在」である。

2017.6.22 「心的因果」について考える(「トシーマの仮説」は、心身1.5元論 ?? )

心的因果の問題は、端的には、「心的作用(意識:非物理的なもの)が、物理的身体に、どのように影響を与えうるか?」という
デカルトの心身二元論に始まる心の哲学における基本問題である。
「トシーマの仮説」では、この問題を、「情動回路」と「認知回路」の脳機能における二重構造(情動回路に、認知回路が
後天的に覆いかぶさった形に進化)で説明できるとしている(「トシーマの仮説」は、心身1.5元論?? )。
この二重構造は、「トシーマの仮説: 5.人間は、動物的本能に加え、新しい能力を身につけた(認知機能と生体制御モデル)」
で解説しているので参照願いたい。
認知回路は「次の情動を満足する選択肢(次の打つ手)を予測する機能(理性)」を持ち、この予測結果(イメージ)を
情動回路がすくい上げ(評価・選択し)、次の打つ手を身体機能(具体的な行動:身体知)に結びつける。
過去の経験(エピソード記憶)から得たイメージとその評価値(生存に有利不利を表す)からなる「連想記憶」に、
認知回路による予測イメージを照らし合わせて、「次の打つ手」を選択・起動する。
上述の一連の働きそのものが、「心的因果の問題に対する回答」である。
霊長類の捕食行動を例にとれば、眼前の熟した果実(過去の経験から食べられると知っている(連想記憶に刻まれている))に手を伸ばし、
捕食する(情動を満足させる)。
人類も、この情動回路を基礎機能として備えており、それに加え、「次の情動を満足する選択肢を、過去のイメージから探す機能(認知機能)」
を獲得したと思われる。
認知機能で示された予測イメージを評価・選択する権限は情動回路の側にあり、「次の選択肢が合理的なもの」であっても、
情動回路がそれを選択しないこともありうる(ひとの感情は、一筋縄では語れないのだ!!)。
情動回路が「次の打つ手」を選択(了解)した後に、情動回路が身体知を起動し、少し遅れて「情動回路で選択(了解)したこと」が
認知回路で意識化される(意志決定したことを自覚する)。
この「少しの遅れ」が、「自由意志有無論争」を引き起こす原因となっている(と思っている)。

2017.6.14 「クオリア」について考える(「クオリア」について問うことは、無意味である)

進化論的に考えれば、この世界(物自体の世界)は、昆虫・鳥類・哺乳類など別々に見えるであろう。
生物によっては、この世は、灰色の世界であったり、暗闇の世界であったりするであろう。
昆虫では、その昆虫なりのものの見え方で、世界を理解し、生存のために活動している(生きている)。
ここで、「なぜ、生物は、世界を、そのような見方(色彩感覚を含める)で理解するのか?」と問うことは、
その生物なりの身体制御の仕組みがそうなっているとしか言いようがなく、哲学的には、無意味なことである。
同様に、人は、「なぜ、赤い色を、赤い色として見るのか?」と問うことは、無意味なことである。
哺乳類は、もともと夜行性であったところから、視覚を異常に発達させており、霊長類に至っては、
樹上の熟した果実を捕食する必要があったであろう(一部、果実ではなく、葉を食すものもある)。
熟した果実を食するには、それを選別する能力が必要であり、そのために視覚能力を高めたと言える。
リンゴの皮の表面は、その熟成度に従い、表面に現れる成分(糖分など)で変化する。
この表面の微細な変化が、色の複雑さをもたらし、微妙な色合いを生み出すことは、容易に推察できる。
このような微妙な色合いは、「ビロード色」など、一部言語表現できるものもあるが、大半は、言語表現できない。
この「言語表現できない」ことが、クオリア(色彩感覚)に神秘性を与えていると、筆者は推測する。
「トシーマの仮説」では、クオリア(五感で得られるもの)は、「意味記憶の内包を形成するもの」としており、
それは、自己の環境を理解するためのセンサーによってもたらされた情報(感知値)である。
すなわち、クオリア(五感で得られるもの)は、対象物の存在確認に重要な働きをするが、「心の存在を
明らかにするものではない」と言える。

2017.6.5 「ベンジャミン・リベットの自由意志研究」について(「自由意志がない」ということは、暴論である)

ひとが無意識的に行う行為は、スポーツの世界を見れば、限りなくある(野球で球を打つとき、無意識にバットを振るなど)。
眼前の車を避けるのに、「これから避けるぞ」といちいち考えていては、車にひかれる(体は無意識に動くのだ)。
しかし、車を避ける時間的余裕が十分あるときは、意識的に避け方を考える。
そのように、余裕を持って、ある行為をなすとき、事前に「行為をなすとの了解」を意識的に行っていると言える。
ひとの脳は、「反射的に行うべき機能」と「認知機能によって行為の意図を了解して行う機能」を同時に満足する仕組みを備えている。
この仕組みは、「トシーマの仮説: 7.人間(個体)は、生体制御情報を、どのように活用するか(デカルト以来の心身問題に対する一つの解答)」
を参照願えれば、お分かりいただけると思う。
認知機能(理性)は、自己を取り巻く環境を理解し、常に将来を自由に予測する能力をもっている。
そして、生物としての生き抜く力の表れである無意識(情動)は、情動(欲望)を満たすであろう予測結果(次なる打つ手)を選択(了解)し、
次の具体的な行動に移行する(次なる打つ手の情報は、扁桃体に届くと並行して、海馬に届き、「意志決定」として意識にのぼる)。
すなわち、「意志決定」は、自由に将来を予測できる能力(理性)に支えられているという意味で、「自由意志はある」と言える。

2017.6.1 「実在論」について考える(「トシーマの仮説」は、自然主義を前提にしている)

トシーマの仮説では、人間の五感で捉えられる世界での生命(ひと)の在り様(振舞い)は、
生命(ひと)の獲得した叡智(認知機能)の働きと深く関わっているとし、その叡智の原点を
「生命(ひと)は、対象物の存在を、その姿・形(外延)と色・匂い・手触り等(内包)の二面で捉える」
に見出している。
更に、認知機能は、この対象物の存在理解を、外界の対象物のみならず、思考のための仮想上の存在物
(イメージ)にまで概念化・抽象化し、それを論理的思考の道具としている。
多くの哲学者の言うとおり、人間は、「もの自体」を感知できない。
しかし、生命(ひと)は、その抽象化能力によって、感知できない世界にまで、推測することが可能になった。
人類は、自ら獲得した能力を前に、どのように使えば良いか迷い、立ちすくんでいるように思える。


2017.5.20 「他我問題」を考える(「トシーマの仮説」には、他我問題は存在しない)

他我問題を、「他者の心の存在を、いかに知りうるか」という一点に限定すれば、「トシーマの仮説」によれば、
自己は他者の世界に生まれ出る存在であるが故に、「他我」は、自己の誕生以前の存在であり、自己の成長につれ、
他者の心は、他者の在りようの一部として、自己の心にとらえられるものである。
従って、他我問題そのものが、問題として成立しない。