心の哲学 -- ひとは、進化の結果手に入れた「心」を、何故に粗末に扱うのか?(あなたに心の補助線を)

進化の結果、認知機能という大きな能力を手に入れて、その能力をどのように扱ったら良いかが分からず、
その前で立ちすくんでいる人々の有様が見える。
・ある人は、「心は、幻である」と説き、
・ある人は、「わたしが説く教義に心を預ければ、天国に行ける」と説くなど。

これに対し、筆者は、
・人々が思っている常識(素朴心理学)からすれば、「心は、人それぞれにある」ことは、自然なことである.
・普通の人は、「日頃話している相手の心が、幻とは少しも思わない」ので、日常生活が成り立っている.
などを考えれば、
それぞれの人が「心(意志)」を持っていると考えざるを得ない。
グローバル化が進み、世界中に「戦争」と「宗教的ドグマがもたらすテロ」が蔓延している現代社会にあって、
これからの進むべき道を真剣に考えている若者に対し、「君の心は幻で、自由意志などない」と説くなど、
到底できない(日常生活から切り離して考えることができないのが、心の哲学なのだ!)。
「心の哲学」は、人生論ではないが、それが絶望感と無責任な態度を誘発するものではなく、
人生は生きるに値することを訴えるものであってほしい。

中学生時代に、「幾何学の問題が補助線一つで解けたときの爽快さ」を、今でも思い出す。
筆者は、幸いにも、心の哲学(トシーマの仮説)という 心の哲学解明の「補助線」を手に入れた(と思っている)。
この哲学仮説をよりどころに、「心の哲学上のいろいろな課題の解明」に取り組んでみたいと思う。
以下に示す拙文は、筆者独自の哲学観(トシーマの仮説)をもとに解説しており、学術的承認を得ているものではありません。
従って、筆者は、これを引用された結果に、何等の責任を負うものではないことを、ご承知おきください。

 (見出し一覧)
 2022.12.9 「悟性」について考える(「理解する」とは、どういうことか!?)
 2021.7.16 「意識の統一性」について考える(デカルト的二元論では、解けない!! )
 2020.7.7 「社会的自己」について考える(「ベンジャミン・リベットの実験結果」は、正しい !? )
 2020.5.6 「理性」について考える(「理性」は、構成的で、かつ、手続き的である)
 2020.2.1 「信念」について考える(「信念」は、絶えず問い直されなければならない)
 2018.9.25 「道徳性」について考える(生命(ひと)は、「神」を創造する)
 2017.9.20 「意志」について考える(意志とは、生命力の発露である)
 2017.9.4 「意識のハードプロブレム」について考える(イージープロブレム ?? )
 2017.8.8 「心的外傷後ストレス障害(PTSD)」について考える(追体験による減感療法)
 2017.7.15 「素朴心理学(常識)」の立場から「心」について考える(平常時において、ひとは「心」の存在を疑わない)
 2017.7.8 「志向性」について考える( 意識 = 心的イメージ + 志向性 )
 2017.7.3 「人格(パーソナリティ)」について考える(人格は、道徳法則の主体である<イマヌエル・カント>)
 2017.6.22 「心的因果」について考える(「トシーマの仮説」は、心身1.5元論 ?? )
 2017.6.14 「クオリア」について考える(「クオリア」は、人生を豊かにする)
 2017.6.5 「ベンジャミン・リベットの自由意志研究」について(「自由意志がない」ということは、暴論である)
 2017.6.1 「実在論」について考える(「トシーマの仮説」は、自然主義を前提にしている)
 2017.5.20 「他我問題」を考える(「トシーマの仮説」には、他我問題は存在しない)

 (注)記載内容は、予告なしに追加または変更することがあります(最終更新日 2024.2.11)

2022.12.9 「悟性」について考える(「理解する」とは、どういうことか!?)

明治の先達は、西欧哲学を日本に紹介するとき、仏教(禅)の語彙を引用したと多くの文献に掲載されているようだ。 「悟性」という言葉もそのひとつであり、英語で言えば、"Understanding"(理解力)に当たるらしい。
先達は、哲学文献翻訳にあたり、"Understanding"に、今日の辞書における"理解力”を含むより広い概念である「悟性」という 禅における言葉(語彙)を、誇りを持って引き当てたに違いない(と筆者は感じている)。
その後の科学的思考(唯物論)の勃興に伴う観念論哲学界の混乱は、禅的精神性に育まれた日本の哲学者に、 多くの混乱と精神的苦しみを与えてきたと思う。
日本に西欧流の哲学が紹介されて150年、認知科学・脳科学によって、脳機能の詳細が次々と明らかになっており、 過去の哲学的論考(例えば、自由意志・自己存在など)が、否定されようとしている。 しかし、今生きて社会生活を営んでいる我々にとって、「現実に生きて存在する」という感覚を否定できるものではない(何かがおかしい??)。
そこで、筆者なりの考え(トシーマの仮説)で、以下、「悟性」について考察してみたいと思う。

筆者は、"Understanding"という言葉に、「理解する」という言葉より、「悟る(さとる)」または「納得する」という 言葉を引き当てたい気持である。即ち、物事の概念化能力を重視することであり、まさに、「トシーマの仮説」の 基本テーゼ1で言わんとすること、そのものである(ひとは、幼少期に、他者から”ある<実在する>”とは、どういうことかを学び、 その学んだ結果を”自己のもの<概念化能力>”として「実践<五感で確かめること>」できてこそ、現実に”ある<実在する>”ということを「納得する」のである <西田幾多郎の”純粋経験”とは、このようなことを言うのか?>)。
人類は、進化の過程で、その優れた感性(五感)を生かして、事物の概念化能力を獲得した。それは、捕食対象物のイメージを 記憶という形で保存し、捕食を必要とする時点で再生した心的イメージと眼前の対象物を比較して、より優れた捕食対象物を 獲得できる能力である。
更に、その能力は、単に捕食対象物のみに集中するのではなく、「捕食対象物が、どのような環境にあるか」を 記憶し、捕食対象物の周囲の事物までも、概念化の対象としたということである。ここに捕食対象物とその周囲の事物、 即ち、物と物との関係を問う判断力(理性)を獲得したと言える。
原始群れ社会の捕食行動において、捕食対象物とその周囲の事物(環境)を仲間に伝え、仲間内の役割分担を決め、集団行動するためにも、 言葉の習得が必須であったことは、容易に想像できる(原始群れ社会成員の言葉を扱える能力が、その社会の生き残りを左右する)。
ここで、改めて、「悟性」と「理性」の関係を、「トシーマの仮説」の 「5.人間は、動物的本能に加え、新しい能力を身につけた(認知機能と生体制御モデル)」と 「6.人間(個体)は、群れ社会で学んだ知恵(経験)を、どのような形で身体に保持するか」を中心に、掘り下げてみたいと思う。

「悟性」は、「物事が、”ある<実在する>”ということを、感性<五感>で読み取る能力」を言い、「理性」は、「悟性によって もたらされた実在する事物の関連を調べて<推論し>、物事(ものごと)が自己にとって”このようであってほしい姿<心的イメージ>”を見出す働き」を いう(このように筆者は主張したい)。
もちろん、「悟性」「理性」ともに、認知機能の一部であり、「悟性」は、「意味記憶」をつくり、「理性」は、「手続き記憶」 をつくる。「意味記憶」「手続き記憶」ともに、人体制御の重要な情報であり、大脳前頭葉の大きい部位を占める。 ここで、重要なことは、「理性」その思考過程でつくられる手続き情報<短期記憶>をも、「理性(思考)」の対象(材料データ)と なりうることである(「生体制御機能のコンピュータ処理モデル表現」のなかで、「コンピュータ処理モデルの側からみれば、認知処理ソフト「認知アプリ」は、 インタープリタ型言語の性格を持っていると言える。このことは、生後取得した「言葉」によって、生体制御情報を読み取り、自己を制御できることを意味する」を参照)。 即ち、言葉によって思考する過程も、また次の思考対象(再帰)になりうることである。
ここに、「理性」の奥深い能力を感じる(理性に限界はない!!)。
しかし、ひとは、常に何かを求めて、理性を働かせているわけではない。ときには、ゆっくりとお茶を飲む時間もあり、これが日常生活ということだろう。 このあたりのことを少し触れてみたい。

「コーヒーを飲みながら、音楽を聴く」「浜辺で爽やかな風に吹かれながら、夕日の沈んでゆく様を味わう」など、 そこには、静かに癒し<いやし>を求める姿があり、特別に何かを求めて、理性を働かせる場面ではないように思える(癒しを求める欲求のみがある)。 このような時、悟性優位の雰囲気に包まれて、ひとは「実在する周囲の事物<環境>」に溶け込む感覚になり、 癒される(マインドフルネスとは、このような状態を言う?)。もちろん、悟性優位をもたらすには、自己の感性を磨く必要がある。

(参考)純粋理性批判(カント)、善の研究(西田幾多郎)

2021.7.16 「意識の統一性」について考える(デカルト的二元論では、解けない!! )

「意識の統一性」とは、意識体験がバラバラの部分の集まりとしてではなく、統一されたひとつの全体として体験されること (意識の境界問題:Wikipediaより)を言い、心の哲学上の解明しがたいテーマのひとつであると言われている。
上記難題は、デカルト的二元論(まず自己意識ありき)から生まれるもので、人間は、本能(無意識)に 覆い被さるように認知機能を獲得したとする「トシーマの仮説」からすれば、容易に解明できるテーマである。
デカルト的二元論では、「われ思う、故にわれ在り」が示すように、「存在概念は自己意識に閉じられている」ので、 自己存在を確信できても、他者または自己以外の事物の存在は、確信できない(他我問題)。
これに対し、「トシーマの仮説」では、その基本テーゼ1で、 思考(意識)の根底に「実在するとは、どういうことか」を見出し、これを「人類が進化の過程で獲得した叡智である」 と仮定した。これは、単なる仮定ではなく、”強い確信”である(このように仮定すれば、色々な哲学的課題を解釈できる)。
ひとは、この実在感により、眼前に現れる事物が「それぞれ実在して意味あるもの」と説明できる。
即ち、認知機能が持つ事物の概念化作用により、事物間の関連が「記憶」として脳に蓄えられる。 そして、本能(無意識)が、自らの関心事または課題を解決するために、その記憶に働きかけている(思考している)とき、 事物間の関連が、その人に”意識”として立ち現れる(まとまりある心的イメージとして再生され、 「実在または事実である」と理解できる)。
ひとは、本能(無意識)で「解決できない課題」を、認知機能に働きかけ、解決策を得ようとするとき、 本能(無意識)は、より効率良く解決に至るイメージを手に入れるために、認知機能に対し、記憶を探す範囲を与える。
この機能は、「トシーマの仮説:5.人間は、動物的本能に加え、新しい能力を身につけた(認知機能と生体制御モデル) のテーゼ6(情動回路による認知結果の評価値)」で説明しているとおり、 ひとは、「情動(欲求)と、打つ手の検索(特徴)イメージと、打つ手の評価値の連想記憶テーブル」を持っており、 ある情動(欲求)が生じたとき、情動(欲求)に対応する「打つ手の検索(特徴)イメージ」が、認知回路に送られて「思考」が始まる。
この連想記憶テーブルは、ニューラルネットワークで構成されており、「打つ手の検索(特徴)イメージ」は、 記憶領域に残された「過去の事例(エピソード記憶)の特徴的断片的イメージ」であると推察できる(このことは、人工知能による顔認識に似ている)。
この特徴的断片的イメージをもとに、認知機能は「記憶領域にある過去の手続き記憶の結果イメージ」をマスク的(部分一致)に検索し、 思考の開始点とその範囲を求める(思考の初期に得られた打つ手の候補イメージを「”直感的”に得られた解決策イメージ」と言う)。
このように、認知機能がある種のまとまり(統一性)をもって思考するとき、”意識”<心的イメージの”曇”>が生まれ、”社会的自己”が 発現するのである(トシーマの仮説:基本テーゼ5を参照)。

(参考)統合情報理論(ジュリオ・トノーニ)、善の研究(西田幾多郎)

2020.7.7 「社会的自己」について考える(「ベンジャミン・リベットの実験結果」は、正しい !? )

近年、心の哲学界は、「ベンジャミン・リベットの実験」をめぐり、自由意志有無の論争に揺れている感がある。
ある学者は、「指を動かそうとする意識的意思決定の前に、無意識的に指を動かすための準備電位が見られる」との リベットの実験結果をもって、「自由意志はない」と言い、
ある学者は、リベットの実験の過誤を指摘し、自由意志(心)の存在を擁護しようとする。
ある学者は、リベットの実験結果を受けて、大胆にも「人間には本当は自由に下せる判断なんかない、 ロボットのように単に外部情報を反射して無意識に動いているだけだ」と言い、「その無意識に動いた結果を、 あたかも意識<私>が行動して得られたかのように見せかけている(意識<私>は、幻想である)」と述べている。
リベットの実験結果は、神経科学の分野で多くの支持を得ているようだ。
一方、常識的に考えて、「家族、親しい人たち、経済的つながりがある人々が、互いに「心」を持っているから、 日常生活が成り立っている」現実を見れば、「自由意志はない」とか、「意識<私>は、幻想である」とは言えず、 リベットの実験結果を素直に受け入れることはできない(奇妙で、どこかが間違っている??)。

読者も、入り口を間違えば、いつまでも出られない迷路を経験されたこともあるであろう。
また、ある考えにとらわれて、新しい道を見いだせないこともあるでしょう。
筆者も、哲学的思索をはじめた時期に、「デカルトの言葉」にとらわれて、思索の進まない時期があった。
ある時、「デカルトは、西欧的「神」からの「ひと」の解放を目指して、今いる「自己」を思索の出発点としている」 のではないか、と気付いた。
幸いにも、筆者が思索を始めた時期は、二十世紀後半の認知科学の発展と脳科学が「脳の奇跡」を明らかにし始めた時期であった。
哲学の世界でも、実存主義をもって、ようやく「神との対話にこだわる人間」を、「ひと」として 考える時代になった、と筆者は考えている。
しかしながら、多くのひとはデカルト的自己(心身二元論)から抜け出せずにいる。
筆者も、過去にはそのような時期もあったが、思索の過程で人類進化の歴史に目を向け、進化心理学的視点に立つようになった。
人間には、本能(無意識)の世界があり、その本能(無意識)に覆い被さる形で、認知機能(意識)を獲得したという 脳機能拡張の事実を知ったとき、思索の転換点を迎えた。
そして、認知機能の働きの一部として、「社会的自己」が発現することも、筆者にとって、新しい発見であった。
「社会的自己」が、どのように発現するかは、「トシーマの仮説基本テーゼ5」 を参照願えれば、ご理解いただけると思う。

ここで、リベットの実験結果を振り返ってみよう。
デカルト的自己から実験結果を見れば、「意識的意思決定の前に、無意識的に指を動かすための準備電位が見られる」ということは、 「デカルト的自己(意識的心)が、意志決定者ではない」ということになる(自由意志はない!)。
但し、意識的意思決定の前に、「身体制御機能(無意識)との間に、どのように指を動かすのかという合意を形成する」視点が、 欠けているように思う(実験の不備?)。
一方、進化論的立場(トシーマの仮説)から実験結果を見れば、無意識と意識の関係がまったく異なる。
それは、情動回路と認知回路が互いに同期をとりながら処理を進めて行くと考えれば、 無意識と意識との新しい関係が見えてくる(リベットの実験結果と矛盾しない)。
リベットの実験結果と自由意志については、次の節を参照願えれば、お分かりいただけるであろう。
2017.6.5 「ベンジャミン・リベットの自由意志研究」について(「自由意志がない」ということは、暴論である)

今一度、「社会的自己(人格)」について考察してみよう。
人類は、無意識(情動回路)に意識(認知回路)が覆いかぶさる形で進化してきた。
群れ社会の成員である「ひと」が、互いに存在を確認し、より大きい群れ社会に適応するために「社会的自己(人格)」を発現することは、 「トシーマの仮説基本テーゼ7」で述べているが、
この「社会的自己」は、認知思考過程で立ち現れるもので、ひとの記憶に大きく依存している。
例えば、「認知症」で記憶を失っていくにつれて、人格(心)が不確かになっていくことでも分かる。
また、生命(ひと)は、他者の世界に生み出され、「ひと」になることは、「トシーマの仮説:テーゼ13」で 述べているが、「ひと」になる過程で、身に降りかかった不幸な事態の記憶から、正常な人格を 形成できない場合(人格障害あるいは多重人格)があることを見ても、認知機能(記憶)の発達が 人格形成に大きく係わっていることに間違いはない。
このように、「社会的自己(人格)」は、認知回路(記憶)の獲得(人類進化)に伴うものであり、安易に捨て去れるものではない (「心を<無>にする」と説くことと、「心は<幻>である」と説くことを、同一視してはならない)。
このことが、逃れることのできない「心の哲学の真理である」とすれば、我々凡人が、群れ社会の中で、 どのような心構え(処世術あるいは人生訓)で過し生きて行けばよいかが、問われるであろう(心構えと哲学的真理を混同すべきではない)。
敢えて、心構えを問われれば、「この大自然に生かされている自分に感謝し、他者と共感しながら、 人生をまっとうする姿こそ尊い」と言える。

 

2020.5.6 「理性」について考える(「理性」は、構成的で、かつ、手続き的である)

「認知回路」は、人類進化の過程で、情動回路で対処できない事態に対応するために脳に付加された機能であることは、 「トシーマの仮説:6.認知回路と生体制御モデル」で述べているが、 情動回路が「次なる打つ手」を問い求めるとき、認知回路が「概念的に思考する」能力を、理性という。
「概念的に思考する」とは、物事の概念的つながりを、構成的に、かつ、動的(手続き的)に捉え(推論し)、 「次なる打つ手(課題解決に至る心的イメージ)」を得るように認知機能を働かせることである。
ひとの生体制御情報が、意味記憶、手続き記憶、身体知、エピソード記憶からなっていることは、「トシーマの仮説(テーゼ7)」で述べているが、 これらのうち「意味記憶、手続き記憶」は、感性(五感と体感)によって得られた物事の有り様 あるいは身体的情報(どのように行動した結果得られたか)を、悟性(概念化の働き)と理性(論理的思考能力)によって、 打つ手(どのように行動するかを概念化したもの)に整理・形成したものである。
このように、理性を支える生体制御情報(記憶)は、手続き的であるが故に、大脳の多くの部位(前頭前野)を占めるのである。

(参考)グローバル・ニューロナル・ワークスペース理論
(注)理性的思考力を鍛える一助として、筆者作成のプログラミング言語
   「Lisp M式への回帰(新しいリスト処理言語GavaOne)」
   をご参照いただければ幸いです。

2020.2.1 「信念」について考える(「信念」は、絶えず問い直されなければならない)

ひとが理性的行動を取ろうとするとき、情動回路は、「情動(欲求)充足条件」を示して、認知回路に対し、「次なる打つ手」を問いかける。
この問いかけにおいて、特定の「情動(欲求)充足条件」と「次なる打つ手(の選択肢)」との間に強い結びつきがあるとき、 その「次なる打つ手(の選択肢)」を「信念」という。
そして、それは、「過去の成功事例(エピソード記憶)」にもとづくが故に、絶えず問い直されなければならない。
「問い直されない信念」は、単なる「思い込み」にすぎない。
では、情動回路は、「情動(欲求)充足条件」を、どのように認知回路に受け渡すのであろうか?
これを、生体制御モデル(「トシーマの仮説:6.認知回路と生体制御モデル」参照)を参考に 説明しよう。
情動回路が、欲求充足条件すなわち過去の成功事例イメージによって作られる「テーゼ6:認知結果の評価値」を示して、認知回路を呼び出す。
このとき、「過去の成功事例イメージ」がない場合は、過去の成功事例イメージに近い(近傍記憶と言おう)認知結果の評価値を基点に、 認知(思考)作業を推し進め、情動(欲求)を満足する「次なる打つ手(の選択肢)」を見出すよう努力する。
ここで言えることは、「近傍記憶がなければ、認知(思考)作業は、始まらない」ということである。
すなわち、豊かな経験(読書や観劇などの疑似体験を含むエピソード記憶)が、想像力と創造性を育むと言える。

2018.9.25 「道徳性」について考える(生命(ひと)は、「神」を創造する)

人間は、群れをなして生きる存在であることは、「トシーマの仮説: 3.人間は、「矛盾した存在」である(生存本能 と 群れ社会帰属)」で、既に述べているが、 人間(個体)は、霊長類が持っているような群れ社会で「他個体とともに生きるべき最低限の本能的な身体機能」を、進化的に受け継いでいる。
すなわち、共に血縁関係にある同族内(原始共産社会)で、個体同士の争いを治めるための「本能的ルール」を、原始共産社会が崩壊してもなお、 各個体が遺伝的に受け継いでいるということである(残念ながら、サイコパスのように、これを受け継いでいない少数の人々もいる)。
この「本能的ルール」は、脳機能の一部として先天的に組み込まれており、本文では、この機能を「先天的道徳性」と言おう。
先天的道徳性は、人類という種に共通なものである(ユングの言う「集合的無意識」に含まれるものと推察できる)。
更に、この先天的道徳性は、ひと(社会的自己)に「善または善行とは、如何なるものか」を指し示す判断基準を与えている。
すなわち、「善きことをせよ」と言われたとき、ひとは、その意味を、「特別の学習なしに(何と無く)」理解できる。
もちろん、「してはいけないこと(悪しきこと)」も、この先天的道徳性が与える判断基準に背く行為として、理解される。
この先天的道徳性に対し、人間(個体)が誕生後に学習によって獲得した道徳性がある。これを「後天的道徳性」と呼ぼう。
後天的道徳性は、群れ社会の支配的論理に強く左右され、先天的道徳性に背くものでも、是とされるものもある。
例えば、ひとは、互いに「相手を傷つけては、いけない」という先天的道徳性をもっているが、 群れ社会(国家)を守るために、殺人(戦争)さえもやむを得ないとしている(ひとは、国家の枠を越えて、自己の先天的道徳性に気付くべきである)。
人間は、他者の世界に生み出され、「ひと」になる存在であることは、「トシーマの仮説: 8.生命(ひと)は、「他者の世界」に生まれ、「ひと」になる(自我の成長、そして「自由」)」で述べているが、 当然のこととして、生命(ひと)は、先天的道徳性を、その身に携えて、他者の世界に生み出される (ひと、一人ひとりに仏性あり)。
そして、成長過程で、無意識的である先天的道徳性を基礎に、意識的(具体的な規範:慣習法)である後天的道徳性を獲得する。
このように、後天的道徳性は、無意識的(感覚的)理解に支えられているが故に、その根拠を問われたとき、
それを明確に示すことができない。
ここに、その根拠を与えてくれる超越的存在者(神)を創造するのである。
そして、ひとは、その「神」に見守られ、照らされて在ろうとする「か弱い存在」なのだ。
それ故、ひとは、その「神」の名を騙り、ひとを操ろうとする人間に、常に注意を傾けなければならない。

(参考)脳に刻まれたモラルの起源(金井良太著:岩波科学ライブラリー209)

2017.9.20 「意志」について考える(意志とは、生命力の発露である)

「意志」とは、一般的に「何かをしたいという強い気持ちを持ち続けること」を意味し、「情動に突き動かされた強い思い(生命力の発露)」 を感じさせる。
それは、生命(ひと)がより良く生きるために、認知回路に対し、「次なる打つ手」を強く問い求めることである。
認知回路によって指し示された意図(理性的に妥当と思われる選択肢)を、情動回路が「次なる打つ手」として選択したとき、その「次なる打つ手」は、 社会的存在である自己(自己意識(自分self):わたし)が選択したかのごとく意識化(合理化)される。
すなわち、「意志決定したのは、社会的存在である「わたし」である」とし、社会的存在「わたし」を自覚する。
この社会的存在「わたし」は、素朴心理学(常識)から見た「心を持った社会的構成員」であり、社会的存在者(道徳法則の主体)とみなされる。
「心を持った社会的構成員」については、「トシーマの仮説: 9.生命(ひと)は、認知機能(理性)の衣をまとい、社会的存在になる(自己保存と自己疎外)」を参照願えれば、より理解が深まるであろう。
「まとっている理性の衣」は薄いため、往々にして、情動(感情と欲望)によって破られる。 それでも、「ひと」は、その破れを繕いながら、 他者とともに生きて行こうと懸命に努力する(逆に、分厚く丈夫で破れそうにない衣をまとっている人もいるが、それはそれで、困ったものだ)。
このように「人生は一筋縄では語れない」という人もいる(だから、人生は面白い)。

2017.9.4 「意識のハードプロブレム」について考える(イージープロブレム ?? )

意識のハードプロブレム(Hard problem of consciousness)とは、物質および電気的・化学的反応の集合体である脳から、 どのようにして主観的な意識体験(現象意識、クオリア)というものが生まれるのかという問題(Wikipediaより:チャーマーズ)であり、解明不能な超難問であるとされている。
トシーマの仮説では、この「主観的な意識体験」は、認知機能が記憶情報を心的イメージとして再現することによって得られる 「再現している心的イメージとそれに志向している自己の感覚である」と捉えることができる(「トシーマの仮説: 2.「心」とは、どのようなものであるか(「トシーマの仮説」の基本概念 と 基本テーゼ」を参照)。
このことは、「スライド映写機(認知機能)でスライドフィルム(記憶)を読み取りながら、スクリーン(視覚野)に映像(心的イメージ)を映し出し、 それを見ている自己」の例えで説明できる。
もちろん、「見ている自己」は、「反射意識がもたらす自己意識(自分self)」である(「カルテジアン劇場:デネット」に登場する ホムンクルス(小人)とは異なることに読者も気付くであろう)。
「視覚情報は、外界の映像が網膜で視覚信号に変換され、視神経で大脳に伝えられた後、映像として再合成されたものである」 という脳科学上の知見を参考にすれば、上述の例えで表される「仕組み」が、脳の機能に組み込まれていると推察できる(将来、明らかになるであろう)。
その「仕組み」とは、
認知処理の過程で、記憶情報が心的イメージとして視覚野に再生されること(大脳前頭前野と視覚野との間に連携回路があること)、
再生されるべき記憶情報と認知機能(海馬)との間に、双方を結びつける回路(神経回路網など)がある(できる)こと、
を言う。
このように考えれば、この問題は「ハードプロブレム」と言われるものではなく、「イージープロブレム」と言える。

2017.8.8 「心的外傷後ストレス障害(PTSD)」について考える(追体験による減感療法)

「心的外傷後ストレス障害(PTSD)」とは、「強烈なショック体験、強い精神的ストレスが、こころのダメージとなって、時間がたってからも、 その経験に対して強い恐怖を感じる障害(定義:厚生労働省)」であるが、この障害を「トシーマの仮説」のもとで解釈すれば、以下の通りとなろう。
人類は、その他の霊長類がもつ本能的に危険を察知する能力の他に、過去の経験(エピソード記憶)から、眼前の事態が生存に有利か不利かを 判断する能力を獲得している。この能力は、「心的イメージとそれに対する評価値からなる連想記憶」によって実現されていると思料される。
この連想記憶については、トシーマの仮説: 5.人間は、動物的本能に加え、新しい能力を身につけた(認知機能と生体制御モデル)のテーゼ6を参照願えれば、 お分かりいただけると思う。
「強烈なショック体験、強い精神的ストレス」を与えた過去の心的イメージが、この連想記憶に生存に危機的状況をもたらすであろう評価値とともに、 深く刻み込まれることによって、その後にもたらされる類似する経験(心的イメージ)に強い恐怖を感じさせ、身体的障害をもたらす。
そして、過去の恐怖体験(エピソード記憶)が無自覚(忘れる)になっても、連想記憶に恐怖のイメージが残る場合(潜在意識化、トラウマ)がある。
精神医学でのPTSD治療の一つとして、連想記憶に残った恐怖のイメージを和らげる方策(連想記憶の書き換え、追体験による減感療法)が有効となる。

2017.7.15 「素朴心理学(常識)」の立場から「心」について考える(平常時において、ひとは「心」の存在を疑わない)

「生命(ひと)は、他者の世界に生み出され、自己のあるべき姿を求めて成長する」ことは、「トシーマの仮説: 8.生命(ひと)は、「他者の世界」に生まれ、「ひと」になる(自我の成長、そして「自由」)」で既に述べているが、 それは、自己が群れ社会に順応する過程でもある。
生命(ひと)は、その成長過程で「他者のあり様」を「自己の意味記憶」に組み込み、他者もまた「心を持った群れ社会の一員」であると理解する。 それと同時に、生命(ひと)は、他者との意思疎通を通じて、「自分は、何者であるか」の評価を「自己の記憶」に取り込み、「ひと」になる。
すなわち、「ひと」と他者は、「わたし」と「あなた」の「社会的関係(社会的存在)」になる。
この「社会的関係」になるとは、同じ群れ社会のルール(慣習、文化)に従って「互いに意思疎通する(心を通わせる)存在」になることであり、 かつ「同じ道徳法則に従う存在」になることを言う。
以上のことは、ひとが生まれて、成長する過程を見れば、容易に(常識的に)理解できると思う。
ひとは、「鏡に映る自己の姿」を見て、「自己も他者と同じ存在(自己も他者と同様に心を持つ実在者)」であると確信する。
しかし、この「自己存在の確信」は、平常時(意識が他者に向かっている時)において、もたらされるのであり、
非平常時(自己に意識が向いている時:内省的な時)には、その確信的態度が崩れる(漠然とした不安状態になる)場合がある。
この「漠然とした不安状態」については、「トシーマの仮説: 2.「心」とは、どのようなものであるか(「トシーマの仮説」の基本概念 と 基本テーゼ)」を参照願えれば、理解していただけるであろう。
ひとは、「他者からの呼びかけ」に照らされている時、心が安らぎ、自己存在への不安もやわらぐ。
講演者が「心は幻である」と熱心に説いているとき、それを聴いている受講者は、自分の心が幻とは微塵も疑っていないのである。

2017.7.8 「志向性」について考える( 意識 = 心的イメージ + 志向性 )

「志向性」については、ブレンターノが提起(再提起?)して以降、いろいろな哲学者により、「意識」に付随するもの、
または、「意識そのもの」であるなどと議論され、現代でもなお「心の哲学」の中心的課題である。
「トシーマの仮説」をもとに、「志向性」を読み解けば、次のように解釈できる。
「意識するとは、認知機能が、自己の記憶をたどること」と、「トシーマの仮説: 2.「心」とは、どのようなものであるか(「トシーマの仮説」の基本概念 と 基本テーゼ)」で定義しているが、
そこには、常に「どの記憶を対象にしているか」という「対象性」を伴っている。
この「対象性」には、「観察者と観察対象」が不可分に伴う。
この観察者から観察対象を指し示す「方向性」が、「志向性」である。
すなわち、「志向性」は、「方向性」が持つ始点(海馬)とその終点(対象記憶情報)で表される。よって、
「意識」とは、「志向性」で指し示された終点(記憶情報)を、イメージ(心的イメージという)として再現することを言う。
「志向性」の終点にある記憶情報が再イメージ化されたとき、「志向性」の始点に反射的に返される体感を「反射意識」と言う。

2017.7.3 「人格(パーソナリティ)」について考える(人格は、道徳法則の主体である<イマヌエル・カント>)

生命(ひと)は、他者の世界に生み出され、「自己のあるべき姿」を求めて成長する。
この「自己のあるべき姿」とは、自己保存の主体である生命(個体)がその命を生かし切ることと、
その生命(個体)を守る共同体(群れ社会)により良く適応することで表される。
すなわち、生命(個体)は、「個体としての生存本能主張と群れ社会帰属のための自己抑制」という二つの相矛盾する欲求を
認知機能で調整し、満足を得ようと努力する。ここに、群れ社会における生命(個体)の振舞いをルール化する動きが生じる。
それは、封建的秩序であったり、ある種の思想的ルールに基づく社会形態(例:社会主義社会)であったりする。
ある群れ社会全体がルール化(制度化)されたとき、この群れ社会に帰属する生命(ひと)は、社会的存在(構成員)となり、
そのルールに従うよう要請される。このとき、社会的存在(構成員)は、互いに他者から「このような人」と色づけられる。
この他者から「色づけられた自己」を、そのひとの「人格(パーソナリティ)」と言う。
そして、自己の人格は、自己承認の有無によらず、帰属する社会の「道徳法則の主体」と見なされる。
自己の人格(魂)は、自己の死後も他者の心(記憶)に残る。そして、その他者の死とともに、自己の「魂」も消滅する。
すなわち、「魂(たましい)」とは、ひとの死後に、その肉体を離れた「人格の概念上の存在」である。
但し、それは、単なる概念上の存在ではなく、地球上に生まれた生命の残影であり、かかわりのあった人々の
人生ドラマに登場した人物の一人である(一人ひとりの命の振舞いが、人々の人生に影響を与え、後世に受け継がれていくのだ!)

2017.6.22 「心的因果」について考える(「トシーマの仮説」は、心身1.5元論 ?? )

心的因果の問題は、端的には、「心的作用(意識:非物理的なもの)が、物理的身体に、どのように影響を与えうるか?」という
デカルトの心身二元論に始まる心の哲学における基本問題である。
「トシーマの仮説」では、この問題を、「情動回路」と「認知回路」の脳機能における二重構造(情動回路に、認知回路が
後天的に覆いかぶさった形に進化)で説明できるとしている(「トシーマの仮説」は、心身1.5元論?? )。
この二重構造は、「トシーマの仮説: 5.人間は、動物的本能に加え、新しい能力を身につけた(認知機能と生体制御モデル)」
で解説しているので参照願いたい。
認知回路は「次の情動を満足する選択肢(次の打つ手)を予測する機能(理性)」を持ち、この予測結果(イメージ)を
情動回路がすくい上げ(評価・選択し)、次の打つ手を身体機能(具体的な行動:身体知)に結びつける。
過去の経験(エピソード記憶)から得たイメージとその評価値(生存に有利不利を表す)からなる「連想記憶」に、
認知回路による予測イメージを照らし合わせて、「次の打つ手」を選択・起動する。
上述の一連の働きそのものが、「心的因果の問題に対する回答」である。
霊長類の捕食行動を例にとれば、情動(捕食欲求)を契機として、熟した果実(過去の経験から食べられると知っている(連想記憶に刻まれている)) を探し、それに手を伸ばし、捕食する(熟した果実の過去の記憶イメージが、具体的な身体行動(捕食)につながっている事実を知る)。
人類も、この情動回路を基礎機能として備えており、それに加え、「言語機能など、より高度な認知機能」を獲得したと思われる。
認知機能で示された予測イメージを評価・選択する権限は情動回路の側にあり、「次の選択肢が合理的なもの」であっても、
情動回路がそれを選択しないこともありうる(ひとの感情は、一筋縄では語れないのだ!!)。
情動回路が「次の打つ手」を選択(了解)した後に、情動回路が身体知を起動し、少し遅れて「情動回路で選択(了解)したこと」が 認知回路で意識化される(意志決定したことを自覚する)。
この「少しの遅れ」が、「自由意志有無論争」を引き起こす原因となっている(と思っている)。

2017.6.14 「クオリア」について考える(「クオリア」は、人生を豊かにする)

「クオリア」については、その定義(どのようなものか)が定まっていないように感じるので、 筆者なりに、いろいろと解釈してみたいと思う。

進化論的に考えれば、この世界(物自体の世界)は、昆虫・鳥類・哺乳類など別々に見えるであろう。
生物によっては、この世は、灰色の世界であったり、暗闇の世界であったりするであろう。
昆虫では、その昆虫なりのものの見え方で、世界を理解し、生存のために活動している(生きている)。
ここで、「なぜ、生物は、世界を、そのような見方(色彩感覚を含める)で理解するのか?」と問うことは、
その生物なりの身体制御の仕組みがそうなっているとしか言いようがなく、哲学的には、無意味なことである。
同様に、人は、「なぜ、赤い色を、赤い色として見るのか?」と問うことは、無意味なことである。
哺乳類は、もともと夜行性であったところから、視覚を異常に発達させており、霊長類に至っては、
樹上の熟した果実を捕食する必要があったであろう(一部、果実ではなく、葉を食すものもある)。
熟した果実を食するには、それを選別する能力が必要であり、そのために視覚能力を高めたと言える。
リンゴの皮の表面は、その熟成度に従い、表面に現れる成分(糖分など)で変化する。
この表面の微細な変化が、色の複雑さをもたらし、微妙な色合いを生み出すことは、容易に推察できる。
このような微妙な色合いは、「ビロード色」など、一部言語表現できるものもあるが、大半は、言語表現できない。
この「言語表現できない」ことが、クオリア(色彩感覚)に神秘性を与えていると、筆者は推測する。
ひとの認知機能では、クオリア(五感で得られるもの)は、「意味記憶の内包を形成するもの」としており、 それは、自己の環境を理解するためのセンサーによってもたらされた情報(感知値)である。 その情報(感知値)は、経験(エピソード記憶)の影響を受けて、微妙に変化する (過去の感知値の増減が、その後の五感能力に影響<増強または減衰>する)
特に、「視覚情報は、網膜上の映像が大脳視覚野で再合成される」という知見に従えば、 情報(感知値)が、経験(エピソード記憶)に影響を受ける可能性がある。 その影響とは、「眼前の視覚情報のうち、”関心あるもの”または”過去に係わった風景・建物・人・乗り物など”が、 慣れ親しんでいるように感じる」など、ある種の「主観的感覚」を生じる(このような感覚が、日常生活を豊かにする!)。
但し、この「主観的感覚が生じること」にとらわれ、「非物理的心の存在可能性」を論じ、いたずらに議論を複雑化させることは、 過去の形而上学的思考の繰り返しにおちいる可能性がある(デカルト的二元論に陥らないように注意しなければならない)

2017.6.5 「ベンジャミン・リベットの自由意志研究」について(「自由意志がない」ということは、暴論である)

ひとが無意識的に行う行為は、スポーツの世界を見れば、限りなくある(野球で球を打つとき、無意識にバットを振るなど)。
眼前の車を避けるのに、「これから避けるぞ」といちいち考えていては、車にひかれる(体は無意識に動くのだ)。
しかし、車を避ける時間的余裕が十分あるときは、意識的に避け方を考える。
そのように、余裕を持って、ある行為をなすとき、事前に「行為をなすとの了解」を意識的に行っていると言える。
脳は、「反射的に行うべき機能」と「認知機能によって行為の意図を了解して行う機能」を同時に満足する仕組みを備えている。
この仕組みは、「トシーマの仮説: 7.人間(個体)は、生体制御情報を、どのように活用するか(デカルト以来の心身問題に対する一つの解答)」 を参照願えれば、お分かりいただけると思う。
認知機能(理性)は、自己を取り巻く環境を理解し、常に将来を自由に予測する能力をもっている。
そして、生物としての生き抜く力の表れである無意識(情動)は、情動(欲望)を満たすであろう予測結果(次なる打つ手)を選択(了解)し、 次の具体的な行動に移行する(次なる打つ手の情報は、扁桃体に届くと並行して、海馬に届き、「意志決定」として意識にのぼる)。
すなわち、「意志決定」は、自由に将来を予測できる能力(理性)に支えられているという意味で、「自由意志はある」と言える。

2017.6.1 「実在論」について考える(「トシーマの仮説」は、自然主義を前提にしている)

トシーマの仮説では、人間の五感で捉えられる世界での生命(ひと)の在り様(振舞い)は、
生命(ひと)の獲得した叡智(認知機能)の働きと深く関わっているとし、その叡智の原点を
「生命(ひと)は、対象物の存在を、その姿・形(外延)と色・匂い・手触り等(内包)の二面で捉える」
に見出している。
更に、認知機能は、この対象物の存在理解を、外界の対象物のみならず、思考のための仮想上の存在物
(イメージ)にまで概念化・抽象化し、それを論理的思考の道具としている。
多くの哲学者の言うとおり、人間は、「もの自体」を感知できない。
しかし、生命(ひと)は、その抽象化能力によって、感知できない世界にまで、推測することが可能になった。
人類は、自ら獲得した能力を前に、どのように使えば良いか迷い、立ちすくんでいるように思える。


2017.5.20 「他我問題」を考える(「トシーマの仮説」には、他我問題は存在しない)

他我問題を、「他者の心の存在を、いかに知りうるか」という一点に限定すれば、「トシーマの仮説」によれば、
自己は他者の世界に生まれ出る存在であるが故に、「他我」は、自己の誕生以前の存在であり、自己の成長につれ、
他者の心は、他者の在りようの一部として、自己の心にとらえられるものである。
従って、他我問題そのものが、問題として成立しない。